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2011年2月

2011年2月27日 (日)

愛媛県に行ってきました②

同日更新ですが松山紀行の第二段、今回は松山のシンボルでもある松山城について紹介したいと思います。

秋山兄弟の生家を出た自分は松山城に通じるロープウェーに乗るため、ロープウェー街と呼ばれる街並みを歩きました。

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ロープウェー街。左右には土産物屋と飲食店が立ち並ぶ、典型的と言えば典型的な観光商店街です。ロープウェー乗り場はきちんとした建物になっており、期間限定で坂の上の雲のドラマについても特設展示コーナーが設けられていました。

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特設館で唯一撮影OKだった正岡子規の病床のセット(複製)と、病気療養時代の彼の食事について。
結核と脊椎カリエスにより病床から身動きもできなくなった子規ですが元々食道楽だったし食欲は旺盛だったためかなり色々と食べています。朝食が雑炊三杯とか昼食のおかずにカツオの刺し身とか間食が煎餅三枚に団子四本とか…薄給だった筈なんですが
ちなみに彼がこの部屋で亡くなる直前までの百二十日ほどを書き綴ったエッセイ集「病床六尺」は一読の価値アリです。書いてる内容は俳句についてや短歌について、手に入れた絵画についてのレビューや元気になったら見てみたいもの(動物園のダチョウ、サーカス、活動写真など)、それに活動写真を見に行けない自分のために知人が用意してくれた立体写真についてなど多岐にわたり、元が新聞用コラムのため非常に短く、そして読みやすい内容になっています。病床で書きあげたのが信じられないクオリティと、生きることへの明るさを持っています(最後の数日はさすがに痛切ですが…)

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お城まではロープウェーが出た直後ということだったのでリフトで行きました。乗ってる時間は五分ほど、心地よい強風を身に受けながらの気ままな空中散歩です。

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お城の入り口近くまで来たら軽い昼食。伊予柑風味の味噌が入った冷やしうどんです。香川県と隣接しているだけあってコシがあるうどんはなかなかの高レベルでした。

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松山城の築城開始者、加藤嘉明をモチーフにしたマスコットきゃら「よしあき君」。言っちゃなんですが、かなり影は薄かったです…なんのかんので、ひこにゃんのデザインは偉大だったなと

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松山城。一度焼失し、その後立てなおされたのがペリー来航後の1854年という、当時物の城としては日本で最も新しいお城です。中の雰囲気もそのせいか犬山城なんかと比べると明らかに新しい感じはしました。
また石垣は登らないようにと注意書きがありましたが、かなり急傾斜なので登る人はいないと思います(登るフリをして写真を撮っている、大学生と思しき集団はいましたが)

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城内の一角には甲冑が置かれていました。自由に装着して写真撮影もしていいそうですが…この手順、全部セルフサービスってかなりキツイと思います。

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天守閣の最上階から松山市内を一望。好天にも恵まれ、なかなかに素晴らしい見晴らしでした。やっぱり海を望むことのできる眺めというのはいいものですねと。

次回はそれ以外の松山市内について軽く触れたいと思います

愛媛県に行ってきました①

もはや二月も月末になっていますが今年最初のブログ記事です。今年もまったり運営の予定ですが、よろしくお願いします。

去る2月の18日&19日、前々から行きたいと思っていた愛媛に行ってきました。メインの目的は司馬遼太郎の小説、坂の上の雲の主人公であった秋山好古、真之兄弟の生家や松山城の観光、あとは日本最古の温泉とされる道後温泉などです。移動はもちろん飛行機で羽田からは一時間半足らず。

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松山空港、わりとこじんまりした空港でした。
空港から市街地まではシャトルバスで40分程度、街中につくとやはりと言うか、坂の上の雲をアピールするのぼりとかが大量に立っていました。

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ちなみに前に行った横須賀(日本海海戦で日本の旗艦だった三笠を展示)ではこういうのぼりとかは何にもありませんでした…横須賀はもう少し頑張った方がいいんじゃないかと

ともあれ、そんな松山市で自分が最初に訪れたのは今回の旅行で一番の目的地の一つであった秋山兄弟の生家でした。

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秋山兄弟生家。多少リフォームはしていますが基本的に当時の姿をとどめているそうです。父親は下級武士だったし松山藩は徳川親藩として最後まで幕府側で戦ったため幼少時代の生活はかなり苦しかったとか。

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前庭に置かれている秋山好古の像。大の酒豪で戦闘中も飲んでいたり唇を銃弾が掠めても〝いい土産ができた″で済ましたり、フランス留学中にチフスにかかっても根性だけで治したお人。
近代日本の騎兵の生みの親とも言える人物であり日露戦争でも数十倍の兵力を持ったロシア騎兵相手に戦線を支え続けました。
豪傑や古武士のようなエピソードに事欠かない人でしたが福沢諭吉を尊敬し、陸軍大将まで昇進しながらも子を軍に入れず、退役後も顕職を求めず故郷松山に戻り、地元中学の校長をやりながらこの家で余生を過ごしたそうです。色んな意味で、尊敬してます。

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その兄好古の視線の先にある弟、真之の像。日露戦争では参謀として日本海海戦を(世界中で号外が出されるような)完全勝利に導く作戦を立てた人物です。有名な
「本日天気晴朗なれど波高し」
というのは海戦直前の電報で彼が残した言葉。
ドラマでは本木雅弘が演じ、小説でも主人公格ですが天才肌でものすごく癖のある性格だったそうなので、友人として持ちたいかと言われると微妙かもしれません(汗)ただ、兄の好古に対してだけは頭が上がらなかったそうです。
また余談ですがトルコの軍艦エルトゥールル号が和歌山で遭難し、生き残った船員を日本が献身的に介護し、トルコまで送迎したとき(エルトゥールル号遭難事件)、日本から派遣した船に秋山真之も乗船していたそうです。旅先から正岡子規にも手紙を書いてました。

そしてここでの観光を終えたら次の目的地へ。次なる目的地は松山城です。

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